技術士は専業か、企業内か、なぜ独立しなかった?
技術士(機械) 小林 廣氏
企業内に居座った自分を振り返って、独立できなかったのは要するに「勇気がなかった」ということだが、若いときから何回も独立を試みたのも事実だ。結局は企業内で研究・開発を続けられたから、面白くてやめられなかった。苦労し、クレームに泣かされたが、プラス面も多かった。
1957年大阪で卒業、東京の造船所に就職。深い考えもなくボイラを選んだ。そして陸舶用やゴミ焼用の開発がわかり面白くなりかけた7年目、不況を理由にボイラ事業の中止が決まった。新分野への転身か、ボイラを続けるか。
ボイラーやるならメーカー……
学校へ戻って助手、ボイラの研究開発と、かねてからの新ボイラの開発、特許申請。されどどうしても実物の開発をやりたい心がおさまらない。この時(1964年)、史上最年少といわれた技術士で独立(No.3314)を試みた。誘われてグループも組んだが、ボイラのコンサルテイングなどありゃしない。条鋼の圧延やバルブの開発など何でも来いとやった。
結局、ボイラをやるならメーカーと観念して潜り込んだ。その後はメーカーでの研究開発一筋に過ぎた。それが幸福であったかと問われれば、研究開発に専念できたこと、取締役技術本部長にもなって技術屋冥利に尽きたと思うし、その蓄積が今の定年後の現役人生に続いたという感慨はある。しかし一方で苦しかったこと、いやだったこともいろいろ思い出される。その問題は?
企業内でのプラスとマイナスと
その第一は、企業内の組織の論理と個人の倫理の衝突。個人としてはいやなことも、組織としては断れないことが多い。またペイペイならいざ知らず、組織の長としては自分の倫理を優先するだけではすまない。責任の全てを負う覚悟も要る。「やめることになるか」と思ったことも、また退職して自由になって、裁判所や公正取引委員会へ駆け込んでやろうかと思ったことも度々であった。
だから、技術士になりたての頃は、独立技術士にあこがれた。(ミ)大阪技術振興協会に出ていくと、先輩方に「独立した方がよい」と盛んに進められた。たとえば独立して、顧客との契約関係ができて仕事を始めると、企業内以上に、より厳しい倫理や責任感が必要になろう。
しかし企業内では、とくに権力を持つようになれば「みんなで渡れば怖くない」式のところがあって、企業内の方が「楽」という考えがなくはない。もちろんそのような契約や倫理や責任に無頓着なら、それこそどちらにいても違いはないのだろうが。
第二には、クレームとの決別。定年後の自由業、あるいは再び宮仕えをしても、クレームとは縁をきりたいと願った。いわゆる先生業。この点、大学はよい。5年ほどやったことがあるが、少々のことではクレームは付かない。責任も感じなくてすむ。だが今はそれが問われている。ともかくも今の現役では、相変わらずクレームに追いかけられている。だがこの頃は年の功か、若い人たちが結構やってくれている。任せる術をわきまえてきたからだろう。
それにしても、いまだに思う。社長になることだけは勘弁して欲しいと。
第三に、実は企業内にいると、その不自由以上に、いろいろのメリットがある。文献・雑誌・新聞などの情報や、文房具やコピーや、メールや電話はかなり自由になる。もちろん業務に関係のある限りであるが。
かくして未だに企業内に未練を残しているというわけである。
小林廣(こばやし・ひろし)
1934年生まれ。大阪大学工学部機械工学科卒業後、浦賀船渠梶i現住友重機械工業梶jに入社。一時、大阪大学にもどり、1964年に技術士(機械)を取得。その後潟qラカワガイダム(現)でボイラーの研究開発を担当し取締役技術本部長で退職。現在も企業内技術士として活躍中。この間、同志社大学で非常勤講師をされていたこともある。
技術士の大先輩として、各種勉強会でご指導を受けています。