「水俣病と技術倫理」

共同研究レポート「これからの新製品開発と社会倫理」(2000.9)より

基本認識

水俣病は高度成長期における「典型的な公害という負の遺産究明」との一般的な認識があるが、科学技術の倫理を考える原点であり、今後も患者の救済と真の原因究明に向けての学問的議論が続くであろう。

1932チッソがアセトアルデヒド製造開始
1951触媒(水銀)活性化のため
酸化剤を濃硝酸に変更
1953発症例の報告
1954排水中の有機水銀を確認
1956公式に発症を確認保健所に報告
1958排水路を水俣川側へ変更
1959水俣湾の魚貝が原因*厚生大臣に答申
1960

1968
*マスコミ報道も8年間ストップ
公式に公害病と認定
排水処理法変更、水銀激減
*疫学調査対応ストップ
アセトアルデヒドの製造中止
*この年、生産量は最大、改造費用は数百万円
1964:新潟水俣病発見
*原因は有機水銀中毒
1979 熊本第2次訴訟判決
認定患者82名
10年間、認定棄却6785人
1987〜 各地の判決 *行政責任の判断分れる 熊本、東京、新潟、京都、関西で訴訟
1996 国の解決案に従い和解が進む *行政の責任、不明確な決着
2001 関西訴訟判決
⇒国、県は上告
行政責任あり
@メチル水銀中毒の原因判断
A59年末以降国、県に責任
認定患者計2265人
認定申請約17000人
*認定大幅増の可能性

*上表は上記レポート及び新聞等から作成

企業側等の対応

早い時期から工場排水中に有機水銀を確認していたが、公式には「事実が99%であっても1%の疑問があれば……」との企業や行政の口実となってきた。また、熊本大学等の研究者は原因の究明にウェイトをかけすぎ、臨床的治療や判断基準決定が遅れた。

例えば、1961年には排水中からメチル水銀を取り出したとの社外秘の社内報告もある。

また、1958年には、水俣を訪れた英国の学者が1940年に英国で発見された有機水銀中毒に酷似していることを示唆したが、日本での発表に反対があり実現しなかった。

行政の対応

1957年時点で熊本県漁業課は「原因はチッソの排水」と排水停止を考えたが、当時の通産省は、排水許可禁止はできないとした。

国(行政)には落ち度がないとの立場が続いてきたが、本年4月の関西訴訟控訴審では、国及び熊本県は「遅くとも1959年末には権限を行使すべきであり、60年以降の患者及び被害の拡大に責任がある」との判決が出された。国、県は上告した。

水俣から学ぶもの(反省点)

@原因物質の特定に手間取り、一方で疫学調査が進まなかった。

*諸説が入り混じり混乱した。また、何らかの圧力でマスコミが8年間も沈黙した。

A国や県は法が不備を理由に行政措置をとらなかったし、企業は排水処理対策を進めなかった。

B予兆に対する予感と行動の鈍さ

有機水銀ができるプロセス究明はともかく、対策の遅れが被害を拡大させた。現在では、ノーリグレット戦略として疑わしきものは予防措置をとる態度が重要となっている。

問題の発生から対策の過程は、科学技術者の科学的犯罪行為ともいえるもので、今後も同様の問題発生の可能性が高い。

第2号で寄稿頂いた小林廣さんから、「科学技術と倫理」についてレクチャーして頂く機会がしばしばあり、同氏も執筆に参画された上記レポート、(財)日本規格協会関西支部モチベーション研究会編をもとに数回に分けて「トピックス(倫理)」欄で紹介します。

なお、内容は筆者の判断が入っているので、同氏の監修を受けています。

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