これからどう生きるかB―人生の節目(1960年18歳) 大学へ

18歳(1960):名古屋工業大学入学

人生の目標を明確に持たないまま、大学を受験することになった。神戸高校(元の神戸一中)担任の松村先生から京大の化学工学を勧められたが、何となくそぐわない感じがしていた。受験直前の実力テストで思いがけない高得点をとったが、目標がしっくり来ないので、直前の受験勉強に気が全く乗らない。

高校柔道部の先輩である吉村健さんが、後輩の勧誘に来られて、2期校である名古屋工業大学を強く勧めてくださった。結局、京大はスベリ、名工大機械工学科に合格した。浪人して、東大や京大を目指すより、親元を離れての下宿生活に憧れて入学した。

勉強の目標はなく、柔道も中途半端に続けた。時間を持て余しながらの生活、親元を離れてマージャンや飲みに行くことなど、締りのない生活で、年2回の試験の直前をしのぐのに苦しい思いをしたが、何とか卒業できた。

今から考えると名古屋で生活したことは大変役に立った。あまり勉強をしなかったので、さすがに成績上位の人が10人以上いることに納得し、世の中には優秀な人が多いことを実感できた。この学校は2期校であり、全国から学生が集まって豊かな交友が育めたこともあり、現在は2年おきの同窓会で半数以上の30人が参加する。この交友はとても大きな財産である。

また、名古屋は伝統的に手堅い土地柄であるが、トヨタを筆頭にモノづくりが強く、工業品出荷額日本一を続け、最も活力のある地域である。東京と大阪にはさまれ、名古屋という小さな市場だけでなく、世界までの巨大市場での商売を成功させるための汗と知恵を出す努力、事実をしっかりと見据えての地に足の付いた活動は、その後大阪ガスに入社し、東京ガスや東邦ガスのガス会社、リンナイやパロマなどのガス機器メーカー等との付き合いの中でも考え方がよく理解できたと思う。

その後、会社に入る際も、どこに行きたいという積極的な気持ちは起きなかった。

父親が父の友人のところへ一緒に相談についていってくれたところ、大阪ガスはどうかと勧めてくださり、有力な方の推薦もあって運良く合格することができた。また、好景気の時期であったし、同社は営業活動がガス会社の中で断然積極的であり、工業用などのガス需要開発に積極的に乗り出しており、機械系の学生を営業関係で採用するという時期に遭遇したのはラッキーであった。入社後会社での大部分をすごした家庭用ガス機器の商品開発、企画などの業務について、サービスショップなどの巨大な営業組織を抱えていたし、当時の営業部長が社長になることは既定の路線にも見えた。私も工場や研究所より、営業の現場に近いところで仕事ができることを希望したので、望ましい就職先であった。また、大阪ガスは社員を大事にする会社で、36年間のサラリーマン生活の中で、よく育ててくださったと思うが、一方で、最後までサラリーマンを続ける前に独立したいという潜在的な「夢」を持ち続けたのも事実である。

目次へ