これからどう生きるかA―人生の節目をチェックする(1951年9歳) 小学生

私は1941年11月22日に神戸で生まれた。父は山本一治(1899生まれ)、母はミヱ子(1908生まれ)、現在は姫路市になったが、ともに兵庫県飾磨郡夢前町の出身で、神戸で結婚して1931年に長兄英輔が、1935年に次兄富也が,1944年に妹ひろみが誕生、私は4人兄弟の3人目である。

神戸市東灘区で芦屋市との境にある阪神国道森市場が1932年に開店したが、父は発起人の一人として設立に深くかかわった。森市場は再開発によりJR甲南山手駅前の「セルバ」に生まれ変わり、私は家族とともに、ここに交流スペース「フレあいスポット」を2006年に開業した。両親が関わってから実に75年を経ての開店であり、経営は長男浩司と次男兼司を中心に取り組んでくれている。

なお、父は1978年に小売商人山本一治自伝「竹のように」で波乱に富んだ人生をまとめた。バトンを長兄英輔に渡して「素晴らしい人生」と結んでいる。

人生の9年毎の重要な節目

暦では「五黄土星」の生まれであり、9年ごとに回ってくる。45歳1ヶ月で父が最も頼りにしていた10歳年上の長兄英輔が亡くなったが、兄は仕事も順調に拡大し、死の直前まで輝くばかりの人生だった。私は同じ45歳1ヶ月で突如として人生の危機に出会ったが、運良く復帰できた。これ以降の人生は付録(おまけ)という気持ちが潜在的に育ち、家族や知人、社会が支えてくださり、生かされていると考えている。現在までの9年ごとを節目として、過去を振り返って見たい。

9歳(1951年):小学校4年生

最近、神戸市立本山第一小学校の同窓会をよく開くようになった。武庫郡本山村を含む5町村が東灘区として神戸市に合併したのが1950年、芦屋市に合併するか住民投票の結果で決定した。まだ、戦後の物のない時期で、合併記念に鉛筆を数本もらったことを覚えている。4年生はクラス編成は変わらなかったが、千坂光男先生から学校を出てすぐの尾中静子先生が担任になられた。当時、私は腕白で回りに様々な迷惑をかけていたと思うが、先生はとても可愛がってくださり、「泰三さん、大学を目指しなさいよ!」と励ましてくださった。

この時から私の願い(目標)は「大学に行くこと」であり、中学受験の時期には阪神間にある灘中、などの名門中学には全く興味がなく、市立本山中学に行くことにしていた。ちなみに現在の本山中学は、阪神間では人気の校区になっているが、当時は「ポン中」といわれ、そんなものかなあと思っていたが、多様な友達に恵まれて伸び伸びと楽しかった。

3年前に小学校卒業50周年の同窓会があり、80人近くが集まったが、尾中先生にも50数年ぶりにお会いすることができた。先生か生徒か区別が付かないほどはつらつとされていてとても嬉しかった。最近は小学校、中学校の同窓会を年に数回と頻繁に開く機運ができてきたので、また先生にお会いできることが楽しみである。

※今年(2008年)、千坂先生、尾中先生をお招きしてクラスの同窓会が開催できた。

今から考えると、「願わぬ夢は叶わぬ」というが、この年が大きな転機だった。

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