自分史C:人生の節目(1969年27歳) 結婚前後
入社した年の12月、思いもよらず子会社のガス機器メーカーに出向することになった。それまで、自宅から20分の西宮営業所で楽しいサラリーマン生活をスタートしたが、わずか2ヶ月の勤務で東大阪の工場へ転勤、冬の朝暗いうちに自宅を出る生活への転換は、学生気分との決別を身にしみて感じた。陽栄製作所(現在はノーリツの子会社、ハーマンプロ)は大阪市内の中小企業を大阪ガスが買収したところである。生産技術レベルは決して高くないものの、大阪ガスの販売力の強さから「アロハサンタセール」が大ヒットした。工事会社が暇な夏場で機器の取り付け工事をし、お支払いは冬という戦略が功を奏したのである。
人生とは不思議なものでこの会社に5年いた経験がその後の仕事、特にISOコンサルタントとして品質マネジメントの構築支援など現在の仕事に深く繋がっている。
27歳(1969) 結婚と転勤
何となく結婚相手について、見合いは向かないと思っていた。会社の同僚二人(F氏、S氏)と三重県の大台ケ原にドライブに行った時に出会った女学生の一人が現在の家内、廣子である。その後、同じメンバーで食事をしたり、スキーに行ったりという中で、意を決してプロポーズした。全く初めての経験であった。数日間は会社でもぼうっとしていたが、前向きな返事をもらうことができてとても嬉しかった。
しかしながら、家内は二人姉妹の妹であり、長女はすでに結婚していたので、岡山の家を継ぐ者がいないと、家内の親戚から強い反対があり、一時はまとまらないのではというほど難しい雰囲気であったが、これも「願わぬ夢は叶わぬ」もので、何とかその年の秋に結婚できた。
「百聞は一見に如かず、百見は一験に如かず」
結婚と同時に仕事の方は本社に帰社し、営業開発部でガス風呂関連機器の技術担当として、広範な業務を担当させてもらえた。当時は高度成長期の真っ只中で、住宅が急増して郊外に広がりつつあった。その中でガス風呂は必須の設備として飛ぶように普及し始めたが、一方で技術的には、変化に対応しきれず、問題を山積みにしていた。
少数精鋭主義ということで、技術担当は一人、係長、課長は忙しくてチェックして欲しい事項まで任せてくれる。同僚の事務屋さんにカバーしてもらっても技術的には追いつかない。当時担当したものの主なものは次の通りである。
- 風呂釜:従来の銅製の風呂がまから、コンパクトな熱交換器をつけたステンレス製の関西独特の屋外焚き風呂釜に。
- 風呂バーナー:従来の鋳物バーナーから、ステンレスのプレスバーナーに。
- バランス型風呂釜:集合住宅の浴室内に設置し、燃焼用空気は屋外からとる。
- 浴槽:木製浴槽やタイル浴槽から、鋳物浴槽、ポリ浴槽、ステンレス浴槽に。
- 風呂ハウスといって、2m2程度の浴室セットなどの開発、販売、施工。
その他一挙に変化が起こったので、故障、クレームについてもデパートのような状態であった。ありとあらゆるクレームにメーカーさんなどと一緒に対応を図ったが、クレームの現場を見、体験して知恵を獲得していった。