(自分史D)次の節目への課程(30歳代の苦しい時期)
●天然ガス転換における機器技術対策
上司から、本音を交えて「お前しかいない」と言われて、天然ガス転換の機器技術対策の責任者として異動したのが1973年の正月である。この仕事は、原料を豊富な資源である天然ガスに切り換える作業であり、従来の都市ガスに比べて発熱量が2.4倍になること等から、ガス事業の根幹を成すガスの調達・供給能力が飛躍的に増大し、ガス料金の安定にも寄与する大事業である。大阪ガスは東京ガスから3年遅れて1975年に天然ガスへの切り替えを開始し、16年後の1990年に全顧客の切り換えを完了した。
この事業遂行のために「安全対策を強化し、機器の不完全燃焼等によるガス事故を絶対に起こすな!」と、当時の安田博社長が決起大会で全員に命令した。
事故、クレームのデパートのような風呂機器や給湯器の状況の中での命令であり、そんなことができるのかと思いつつ、必死になって機器システムの実情、燃焼特性、現場での作業環境、1000人にも及ぶ作業者が限られた時間の中で確実な作業を行うための対策システムの検討、確立に没頭した。
しかし、検討すべきこと、やってもらうべきことが多すぎる。このことを、周りのスタッフや上司に理解してもらうことは難しい。その内に仕事をやる気がなくなり、暗い日々を送ることになった。人生の中で最初に挫折感を覚えた。転換作業の初期には大きな作業上のトラブル、顧客には機器の点火不良などの頻発でご迷惑をおかけした。
しかしながら、重大な事故が16年間にわたりほとんど発生しなかったことは、当たり前かもしれないが、素晴らしい成果だったと評価できる。対策取り組みなどは、別の機会に紹介したいが、この時の取り組みを体験論文にして1997年に技術士試験(環境部門)に合格した。この時の喜びの大きさは伝えられるものではないほど大きかった。
●家内と家族のこと
結婚した時から、仕事中心で毎日遅くに帰宅した。マージャンや飲みに行くことも多かったので、家内には家のことを任せたと言っても、さぞ心細かったと思う。3人の子供達が生まれ、とても感動したが、子供たちと一緒に遊ぶこともあまりなかった。朝会社へ行く時に子供たちが「行ってらっしゃい。また、明日!」と声をかけられた。
このような状況の中で仕事への意欲が萎えてき、とはいいながら、会社を辞めて仕切り直しをするほどの自信がないので、じっと耐えるしかなく、家内には大きな心配、苦労をかけることになった。
●長兄の発病と死亡
長兄英輔は、私より10歳年上で、身体の不自由な父と父を支える母と一緒になり、年少の頃から果物店を経営し、これを大きくして、阪神間では最も大きな店にまで育てあげた。私にとっては親と同様の存在であった。まさにその上昇時に白血病にかかり、病院の無菌室で治療を続けたが、45歳と1ヶ月で亡くなった。この時の家族の悲痛さ、本人の無念さを痛いほど感じた。私は兄の横に付き添いながら、徐々に立ち直っていった。