(自分史E)人生の節目(1978年36歳)
「朝の来ない夜はない」ように、時間の経過とともに、だんだん元気になってきた。
天然ガス転換の機器技術対策に5年間係り、初期の問題を解決し、安定期に入った1977年秋、課長に昇格し営業開発部管理チームで機器の商品企画を担当することになった。
●初めての海外出張
1978年の夏、英国で国際燃焼学会があり、京都大学の功刀(くぬぎ)教授のお薦めで総合研究所の貞森さんが自ら研究している触媒燃焼に関するテーマの現地調査とあわせて参加する方向で話が進みだした。営業関係から誰かを一緒に行かせる方針が決まり、上司の決済で私と貞森さんと二人で3週間の欧州での調査が実現した。
当時の海外出張はまだ手厚くサポートされ、訪問先への手紙は企画部の通訳の方が翻訳してくださるし、旅行の手配は秘書部がお世話して下さった。また、二人とはいえ、大阪ガスからの調査団であり、故井筒部長(後に専務)の提案で、欧州のガス会社や企業、研究所の訪問先に対しては大西副社長(その後、社長、会長)がサインして下さった依頼状を出すことができた。
「百聞は一見に如かず、百見は一験に如かず」とはまさにこのことで、全く前例がないような意外なことの連続で人生における6ヶ月分にも相当する貴重な体験ができた。
帰国して、井筒部長、今井部長補佐から、「どうやった、元は取れたか?」と聞かれ、「はい!」と答えただけで、社内では報告会らしいものも行わずに個人への投資に留まったのは、勿体無かった。営業部門では動きが激しく、かなりの権限が個人に任されており、また現在では考えられないほど大らかな時代であった。
英国、欧州は土地が広く、高速道路網などのインフラが整備されており、日本にいては分からない価値観の違いが、ここからスタートしていることを理解できた。英国ではレンタカーを借りて調査先へ移動したので、痛切に実感できた。また、当時は冷房がなく、暖房が必須であるなど気候の違い、さらに、工業用分野などで気体燃料(天然ガス)の普及が進んでいることにも驚かされた。
●その後の住宅機器市場での熾烈な電気との競合と安全対策
住宅機器の市場はガス機器システムの安全対策の遅れから、電気との競合によるガス離れ、ガスのシェア低下が大きな問題になってきた。とくに集合住宅における電気温水器の進出が顕著であり、これが経営上の大きな脅威となってきた。この中で1980年に営業部に異動し、住宅設備のエンジニアリング、技術情報の提供などの業務を担当した。ガス機器メーカーが力をつけてきた時期であり、エレクトロニクス化による制御システム、コンパクトな燃焼技術の導入が実現するとともに、ガスの安全システムについても格段に整備、改善が進み、市場での信頼回復が実現できた。
ガス会社は東京ガス、大阪ガス、東邦ガス3社の持ち味を上手く出せると大きな力が発揮できるが、これがなかなか難しい。実際の事故の発生件数は小型機器の開発普及などの取り組みを先駆けてきた大阪ガスが最も少ない。技術システムの画期的な提案について、集合住宅のパイプシャフト設置型の給湯器やマイコンメーターの開発では東京ガスが大きな力を発揮したのである。