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業務概要【経営】      2011.1.31

 エイコーンスタジオ(旧フレあいスポット)の経営

 旧森市場は、1931年の建設計画時に父一治が10人の発起人の一人として32歳で参画して着工し、1932年に開店した。この時期、父は母みえ子と結婚し、長兄英輔が誕生した。

 以降この地で果物商を営んだが、父は若い頃、リューマチを発病し病弱であった。私が小学校1年の時に、父の体調がさらに悪くなり、当時高校生だった長兄英輔に家業を譲らざるを得なくなった。兄は高校を退学し、店を大きくし、発展させていった。私は両親と兄達の苦労を見ながら育っていった。

 このあたりの経過は父が残した自伝「竹のように」に詳細な記録がある。

長兄の死とその後の経営の変遷

 長兄は、事業を拡大しようとしていた最中、1977年に病に倒れ45歳で亡くなった。店は義姉と甥が継ぐことになったが、世の中の変化の中で徐々に森市場は停滞・衰退していった。地域での生き残りをかけて再開発事業がスタートし、1992年に「セルバ」が開店した。キーテナントにはマイカルが入り、その後JR甲南山手駅ができたので、発展が期待された。

 「セルバ」の開店直後の1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生し、当地は激震地であり、新しい再開発ビルも全壊扱いの状況であった。果物店はそれまでの営業実績から、再開発ビルの国道側の屋外エスカレータを降りた正面玄関に200m2の店舗を構えたが、人の流れは駅や駐車場からが主力であり、スーパーマーケット(マイカル)の店舗からも遠く、厳しい経営が続いた。

母の死と経営の方向転換

2002年に母が94歳でなくなった。義姉はこれを機に店を閉めることを決断した。同時期にマイカルは経営が悪化し、権利を売却して、「セルバ」の経営は大きく方向転換せざるを得なくなった。私は、義姉から後の経営の方向付けについて相談を受け、3年間転換の方策を検討したが見通しは厳しかった。

 結局、親族から店を買い取って、自ら経営することを決意した。地域の活性化のお役に立てる再開発ビルにしたいとの気持ちは、両親と長兄の意志を継ぎたいとの想いが強かったから決断したが、家族も親族も全員が反対という中での意思決定であった。

交流スペースの開業

 事業を始めるに当たって、資金を持っていたわけではない。@この年から5年間、年金が入るので、運転資金、損失補填に当てること、A事業資金は店の土地建物を担保にして金融公庫から融資を受けること、B潟Gコ・サポートではなく(有)フレあいサポートを設立して、最悪の場合は被害が本体に及ばないこと、Cそれでも不足する資金は取引先や友人からの出資、借入金を仰ぐこととした。

2006年5月にようやく「フレあいスポット」をオープンした。店の改装には、複合ビルでもありスプリンクラーの整備など予想以上にかかったが、長男が建築の専門であり、施工管理を担当してくれて費用の節約が図れた。オープンの際には、大阪ガスの先輩で当時芦屋大学の倉光弘己学長に友情出演といって引き受けて下さった。

これからの経営

店をオープンして5年近くになる。まだ、経営的に自立できる状態ではないが、最悪の事態をさけて、継続する見通しはできた。店の運営については、毎月、家内、二人の息子と4人で経営会議を開き、これからのあり方について意見交換・模索を続けている。また、テナント用に貸し店舗として予定しているスペースが埋まらないので、私のサテライト事務所として情報発信できるように改装した。

長男は、理事に推挙され、店舗活性化担当として活動している。理事会の運営は旧理事会と新理事会で、過去のしがらみもあり揉めているが、少しずつ変化が見えるようになってきた。両親が当地に関わって80年、息子がその活性化に協力する立場であり、私も支援して夢を引き継ぎ、ささやかでもお役に立ちたいと願っている。


〔左〕店設立時のちらし  〔右〕料金表(現在も変更なし)


〔左上〕設立記念講演 芦屋大学学長 倉光弘巳氏  〔右〕同パーティーの様子
〔左下〕店舗外観  〔右下〕パーティーでは殺陣道の演舞も。メンバーとの記念撮影


〔左〕経営理念  〔右〕掲載された新聞記事